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Shaun Charman : I Used to be in The Wedding Present
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 ショーン・チャーマンはオリジナルWeddoesの中では一番最後に加わったメンバーであるドラマー。1985年の結成から追放されるような形で脱退した1987年12月末まで在籍。編集盤の『Tommy』に収められた全シングル(ただし、デビュー・シングルのA面"Go Out and Get 'Em Boy!"を除く)とレディオ・セッション、1987年のデビュー・アルバム『George Best』、BBC Radio 1 "John Peel Show"での最初のウクレイニアン・フォーク・セッション、そして1988年2月のシングル"Nobody's Twisting Your Arm"でのドラムがショーンです。ここで分かるように、脱退直後はそうでなかったものの、近年になってデイヴィッドとショーンは再び友達付き合いを深め、元TWPメンバーの中ではもっともデイヴィッド・ゲッジ本人と友好的な関係にある人ですので、他のメンバーのコメントに比べれば概ねフランクで穏やかな内容になっています。ちなみに彼がTWP脱退後に結成したThe Popgunsはつい最近再結成を果たしましたが、ショーンはそこには加わっていません。 [last modified 12th May, 2005 : Japanese translation by YOSHI@TWP-CINERAMA /Special thanks to all the crew on Something and Nothing.]


Q. TWPで過ごした時間を短い言葉で表現してください。

「僕の友達は“あんたはク○ッ○レよ!”って思ってるよ」
{訳注:たぶん彼が在籍していた頃の楽曲"Everyone thinks he looks daft!"を文字った洒落?}


Q. なぜTWPを離れたのか、その理由を正確に教えてください。

最近じゃもうあれこれ考えなくなったし、すっかり大昔の話になってしまったからね。僕らのバイオグラフィー本『Thank Yer, Very Glad』の中に書かれている通りで、メンバー全員にとって決して幸せな結果ではなかった。何年間かは本当にいい友人関係にあったから、今でもたまに極々個人的な部分では悲しみを覚えるけどね。もしTWPがあんなに売れてなければ、現在でもいい友達だったろうとは思うよ。

あの本に書かれている事で反論したいことがある。まず要因はお金の問題じゃなかったって事だ。作曲者クレジットに関しての是非についてはみんないろんな見方がある(僕自身の捉え方もあの頃からはちょっと変わった)。他のバンドのメンバーよりもデイヴィッドが稼ぎ始めてからは僕とデイヴィッドの関係性にも変化があった。当時は週50ポンドで生活していて、そのクレジットのせいで格差が生まれたのだけど、別に他のメンバーは金銭面の事で頭を悩ませてはいないようだった。デイヴィッドが曲の大部分を書いていたのはもちろん分かっていた。でも(教師をやっていたピーター・ソロウカを除いては)他の仕事に就ける状況でもなかったから、全員がその収入に頼っていたんだ。僕らはそれを分け合う為にそれぞれ譲り合っていたのだけど、だんだんとバンドが“デイヴィッドのグループ”みたいになって他のメンバーがデイヴィッドを「親分」として扱うようになった。何かバンドが始まった頃と変わってきちゃったなあ、とは思ったね。で、その状況を認めなかったのが間違いの始まりだった。僕はその状況を受け入れるか、もしくは脱退するしか無かった。僕は心から音楽を愛していたし(特にジョン・ピールの番組でかかるようなやつね)、僕らが作っていた音楽も本当に誇りに思っていた。そのサウンドに対する僕なりの意志もあった。僕自身の人間性が攻撃的であるという評判は後にその脱退を正当化するためにデイヴィッドによって誇張されてしまったけれど、"Why Are You Being So Reasonable Now?"(=なんで今頃になってそんな聞き分けの良いような振る舞いをするのかね?)のタイトルが僕に対するメッセージだっていう僕の聞いた噂が本当なら、たぶんそれはお互いを理解していなかったってっていう証拠だよね。
{訳注:1990年刊行のバイオ本『Thank Yer, Very Glad』Chapter 8には当時のショーンとメンバー、プロデューサーのChris Allisonとの確執と脱退までの顛末が書かれている。ここではショーンは殊更自己主張が強く、実際に肉体的な暴力に出るような攻撃的な性格であったかの様な表現がされており、長い間このバンド追放劇はショーンに要因があると信じられていた。"Why Are You Being So Reasonable Now?"は歌詞自体は浮気をしているパートナーへの叱責をする様なものだが、そのタイトルはショーンへの当てつけで書かれたかの様な説明が同著の中にあった。また後述するバンド近縁者との人間関係についても書かれている。}

それとツアー中、時々閉所恐怖症みたいになったんだ。旅して廻るのは好きだったんだけど、例えば1986年は150回を越えるギグをやってね。そうなるともう一刻も早く家に帰って友達の顔を見たくなったり、洗濯をしたくなってさ。ある時スイスで、もう〜泣きたくなるような事があって…しばらく辞めたいと思ったよ。グループの一員であるという事は他のメンバーと朝も晩もずっと一緒にやっていかなくてはならないし、ツアーヴァンの中に監禁されているような状況だと現実味が薄れていくもんなんだよ。

後になって、当時バンドのローディーをやっていて、バンドが始まる前から一緒にいた僕のガールフレンドにデイヴィッドが付き合おうと色目を使い始めて。他のメンバーは気付いていなかったし、彼女にも口止めされたけど、僕はだんだん不機嫌な状態になってね。最後のユーロピアン・ツアーの間に、ツアーが終わったら脱退するつもりだと話したんだ。この件に関しては何もなかったけど、このままだとくじけそうだったのは感じていた。でもこの失望がそういう事を言った理由だったのかどうかはわからないよ。キース・グレゴリーも辞めたいと思っていたのも知っていたし、ある意味では、もっとちゃんと全てを打ち明けて話し合っていたのなら上手く行ったのかもしれない。でもなぜ僕がそんなに不機嫌だったのかをわからない連中の中でどれだけ自分が孤立していったのかは気付いてなかった。

その年のクリスマスに実家のブライトンにいて、僕が追放されたという手紙をもらった。あまりに突然で、そういう時にどう対処したらいいかなんてわからなかったし手の打ちようがなかった。気が付いたらそのままリーズにすっ飛んでいってたよ。でも、もう奴らは代わりの人間(=サイモン・スミス)を見つけていて、もう僕とは何も話し合う余地が無い感じでね。デイヴィッドはそのローディーをやっていた僕のガールフレンドのサラに同じ日に手紙を出していて、実はそっちの方が先に着いていたんだけど、彼女は手紙に書いてあった事を全部電話で話してくれたんだ。そこにはグループの仕事に残ってくれないか、とも書いてあったって。デイヴィッドに意地があったんなら、いっぺんに何もかも僕の世界から取り上げようとしたんだろうけど、幸いにも、彼はそうしなかったね。


Q. TWPを離れてからしばらくの間、グループの一員として過ごした時の事で何か恋しくなった事があったら教えてください。

僕が脱退してから直ぐにTWPはバンドとして成功して、実際レコードもとても良い出来だった。気付くと僕はブライトンに戻って派遣社員として働いていてね。最初は書類整理で、それからいくつかひどい仕事もやって、しばらくはそうやって何とか過ごしていた。とにかくバンドの連中があちこちにいるリーズにはもうこれ以上いたくなくて、南に帰ったんだ。だからまあ、とっても寂しかったよ、とでも言った方がいいんだろうね!自分の人生でも最悪の時期だったとしてもね。

ある派遣の仕事で行ったご老人たちが働いている職場の事を思い出すよ。僕を見るなり舌打ちしながら「若いのに、こんな所で貴重な時間を無駄遣いしよってからに!」なんてボヤくようなね。あの月、TWPはTop of The Popsに出演してたっけね…。


Q. 何か後悔している事はありますか?時々まだグループの一員であったらいいな、と願った事は?

今は全くない。愛する家族もいるしね。パートナーのキャロルと赤ん坊がね(サラとは長い間一緒にいたけど、結局子供染みた考えのせいで破局した)。バンドの口の悪いやつは人生そんなに順風満帆なものじゃないよ、なんて言ったんだけど。

万事こういう風に上手くこなせたら良かったのにと思うと残念だし、例えば"Kennedy"でプレイ出来ていたならな、とかね。そうすればあの歌詞の一説にある"Too Much Apple Pie"が一体なんなのかわかるだろうしね…

みんな『Seamonsters』もいいアルバムだよ、って言ってくれるんだけど、実は聞いたことがないんだ。願わくばもう1、2年バンドにいて、友好的な雰囲気の中で去れれば良かったんだろうけど、でも何枚か素晴らしいレコードも作れたし、3つの違うバンドで9回のBBCセッションも体験できた。だから何も文句はないし、それぞれの瞬間に立ち会えた事はラッキーだった。それにTWPとThe Popgunsというバンドのオリジナル・メンバーであれた事も誇りだよ。既に完成されたサウンドとスタイルのあるバンドに加入するよりも良かったし。「僕はMarc Riley with The Creepersみたいにビッグなバンドになりたいんだ」なんて僕が言っていたのをキースは覚えていたよ。{訳注:Marc Riley with The Creepers(& The Creepersの表記もあり)は元The Fall初期のギターリスト/ベーシストだったMarc Rileyのバンド。TWPは後に1994年のシングル"It's a Gas"のカップリングで彼らの"Jumper Crown"をカヴァーしている。Marc Rileyは現在BBC 6 MusicのDJとしても活躍中。}


Q. あなたがTWPで最高の瞬間だったと思う楽曲、もしくはパフォーマンスはありますか?

この頃じゃ『George Best』のサウンドは古くさいものかもしれないけど、あれは今でも誇りに思えるものだし、逢うファンみんなが自分にとってどれだけあのアルバムが重要かを話してくれるのが喜びだよ(まあ、そのファンの多くは僕と同じくらいの髪の量なんだけどね!)。人それぞれどのアルバムがフェイヴァリットなのかは異なるだろうけど、僕に教えてくれた人の数から察するにあれがWPで最も売れたアルバムだと思うね。


Q. TWPでのフェイヴァリット・レコードを教えて下さい。
(a) あなたが参加しているもの と (b) 参加していないもの の両方で。

(a) "My Favorite Dress" (b) "Kennedy"

別に嫌いだからって訳じゃないけど、脱退してからの作品はあまり聴いてないんだ。聴こうと思えば聴けたんだろうけどね…。


Q. どの会場/フェスティヴァルでの演奏が“背筋をゾクゾクとさせる”(良い意味でも悪い意味でも)ものでした?

1987年の暮れにリーズのPolyでやったコンサートの最高潮の時にオーディエンスが"A Million Miles"を合唱していたのが聞こえてきた瞬間と、そのすぐ後に故郷のブライトンでついにやれたステージが思い浮かぶね。

あと忘れちゃいけない、1985年3月1日、Dik Dik DimorphicのサポートでAllerton Bywaterに出た日だね。あれが僕の最初のコンサートで、なおかつそれまで人前でドラムを演奏した事がなかったからドキドキものだったよ。{訳注:TWP加入前はベーシストだった。}あれはかなり落ち込んだけどさ…。


Q. デイヴィッド・ゲッジについて、ファンが知らない秘密があったら教えてください。

デイヴィッドは数学で2:1の成績で、The Chameleonsのメンバーと一緒の学校に通っていて、彼らと一緒に一度“Thatcher the Snatcher”(サッチャーはかっぱらい)っていう曲を演奏したんだ。


Q. バンドを離れてからTWPかCINERAMAを観た事は?

脱退してからTWPを見ることは他の奴に寝取られた恋人を見に行くみたいで気が進まなかったんで、答えは「NO」だね。The Popgunsでサポート・アクトとして出る機会が一度あったけど、ロンドンで働いていたからあの日はギグの前に間に合うように電車に乗って帰って、彼らが出る前にとんぼ帰りすることになった。で、CINERAMAに関しては「YES」。確かに観たことはあるけど、TWPとは訳が違うからね。僕が観たときはまだ昔のレパートリーを演奏してなかった頃でね。{訳注:CINERAMAがTWP時代のレパートリーをステージで解禁したのは2001年4月以降の話。ショーンが観たのはCINERAMA開始当初から2000年までの間と推測される。}最近のTWPは観ていないけど、まあCINERAMAが名前を変えただけのようだしね。今の彼らを観に行くのは別にやぶさかじゃないよ。


Q. 今現在デイヴィッド・ゲッジとはどういう関係ですか? まだTWPに再参加出来ると考えていますか?

この頃は表面的にはとても上手く行ってるよ。デイヴィッドは今僕の地元のブライトンの近くに住んでるから、街でバッタリ会うしね。{訳注:デイヴィッド・ゲッジはアメリカとイギリスを行き来する生活をここ1、2年は続けているが、アメリカでの拠点がアルバム『Take Fountain』の大部分が制作されたシアトル、イギリスでは故郷のリーズを離れ、新しい恋人と一緒にブライトン近郊で暮らしている。}よく話すし何ヶ月か前一緒にカレーを食べに行ったよ。彼の最初のピール・セッションに際して(僕がいたバンドの仲間も共に)一緒に演奏してくれないか頼まれた事があってね…つまりそれがCINERAMAの最初のJohn Peel Sessionになったんだけど。そこでは僕はギターを弾いた。"Kerry Kerry" (僕の友達の名前を取って命名された)とあと3曲。でもデイヴィッドは全くこれまでとは違う革命的なサウンドを模索していたみたいでね。基本的にはポップ・ソングだから難しかったんだけども。結局お互い上手くいかなかったので、(あの頃とは違って)友好的に関係が終ったんだ。僕はあまり初期のCINERAMAの作品には入れ込めなくてね。シングルになった"Kerry Kerry"には僕が考えたギター・フレーズやいくつかのヴォーカル・パートも入ってるけどさ。ま、僕らは演奏していないんだけどね!{訳注:CINERAMA公式活動としてはお披露目となったBBC Radio 1 "John Peel Show"でのセッションは1998年6月14日に収録されている。ここでの話はおそらくそれ以前のリハーサル段階でショーンがギター・プレイヤーとして参加していた事を示している。ちなみに"Kerry Kerry"は作曲家クレジットこそ無いものの、その曲が収録されたデビュー・アルバム『Va Va Voom』にはスペシャル・サンクスの欄にショーンの名前がある。それにしても現在のパートナーであるサイモン・クリーヴ以前に元TWPのメンバーの中でもっとも険悪な仲にあったと思われていたショーンがCINERAMAに参加する可能性があったとは驚きである。}

人の事をうらやむなんて人生の無駄だし、デイヴィッドと一緒にプレイするのに何の支障もないだろうけど、僕には家庭があって仕事もある。バンド活動をフル・タイムではできないんだよ。もっとも、将来的には楽しみにしていてもいいのかもね。


Q. 近況を教えてください。

ギグには今でも行ってるけど、音楽的には何もやってないんだ。今ではちゃんとしたITの仕事をしていて、15ヶ月になった娘の面倒を見ている。

まだ音楽への興味はあるんだけど、他のものへの情熱が…サッカーだよ(ひいきはBrightonにHove AlbionとSt. Paul)。あと毎週自らピッチでゼーゼー息を切らせてるよ。よくサッカーゲームのSubbuteoを持ってくる事でも有名だしね…。


Q. あなたのロフトにはTWP関係のお宝がありますか?

テストプレス盤も含めてヴァイナル盤は全部あるな。すべてのギグとリハーサルもテープに録り集めてたけど、より住みやすい環境にする為に何年か前に人にあげちゃったよ。追い出されるまでの期間に作られた未発表曲のテープも山ほどあったけど、まあ聞けば何でリリースされなかったかよくわかる様な代物だよ!


ショーン・チャーマンだけへの質問

Q. The Popgunsには何があったんですか?

今年の初めに見に行ったよ。ギターリストのサイモンの友達の結婚式のために再結成して、それからブライトンでギグをやったのを観たんだ。The Popgunsとは友好的に別れたんだけど、もうバンド自体には夢中になれなくてね。いいレコードも作ったとは思うよ。でもいつも僕自身の好みよりはちょっと明るい作風でね。彼らは僕が離れてから何枚かアルバムを作ってから、正式に解散した、というよりは自然とフェード・アウトしていった感じだった。{訳注:TWP脱退後に結成に加わったThe Popgunsからショーンは1993年頃に脱退し、バンド自体はその数年後に自然消滅。2005年に入って再結成を果たしたが、ショーンは加わらなかった。}彼らは今でも良い友達だったから再結成も容易だったんだろう。でも僕がいた頃は、その輪になかなか入れなくてね。僕が離れてから何人かドラマーが加入して、最近のギグではその最後に加入したドラマーを使っていた。バンドを観るのは変な気分だったよ…すべてのフィルやビートはあの頃と同じなんだけど、でも何だか僕が叩いていた時とは違うんだよね。その最近のギグは今ひとつだったかな…そう言えば電車の中でヴォーカルのウェンディとギターリストのサイモンが二人の子供を連れてディズニーランドから帰ってくるのを見かけたよ。あれが彼らの普段の姿って訳だ…

ある意味では脱退した時と同じようにThe Popgunsの脱退についてはアイロニックに考えていたんだよね。バンドが売れ線になって味気ないものになるのが嫌だったから、The Popgunsを辞めた。そしたら彼らにとっての『Seamonster』が生まれた。まったく…


Q.
そもそも、どうやってTWPのドラマーの座を得たんですか?

(デイヴィッドとキースが通っていた)リーズ大学の掲示板に貼られていたメンバー募集告知を見て応募したんだ。それはドラマー募集のものだったけど、実は僕はバンドでドラムを叩いた経験は無かった。元々はベーシストだったし、他のバンドで練習も兼ねてパートを交代したくらいでね。その告知にはThe Chameleons, The Fall, Josef Kなどなど僕が好きだったバンドの名前が書いてあったんだけど、実際に会ったらその他にもたくさん好きなバンドが共通しててね。The MembranesにFolk Devils, Three Johnsとかね(古くさいけどね!)。彼らはドラマーを見つけるのに苦労してたから、きっと音楽的な趣味が似通っていたのが嬉しかったと思うよ。ある時大学でライヴをやるのにローディー仕事をやったら15個のタムタムとドラムマレットを持って行かなくちゃならなかったのを思い出すよ!デビュー・シングルの"Go Out And Get 'Em Boy!"ではB面だけしか叩けなかったけど、理由はB面の"(The Moment Before) Everything Spoiled Again"は途中サウンド構成が薄くなって休憩が出来たのでね。"Go Out〜"の方で叩いたJulian Sowaは僕が当時在籍していた別のバンドの仲間だった。僕はファースト・シングルとセカンド・シングルの"Once More"が出るまでの間にその曲の演奏方法を学んだわけだけど、バンドのスピードにものすごく左右される曲なんだって気が付いたよ。とにかく出来る限りフル回転で演奏しなくちゃならなかったんだけど、やってるうちに段々上手くなって、後年はもっと速く演奏できるようになったよ。

あの頃のもう1つの思い出としては…夏の間ずっと大家と揉めてね。「Young Ones」{訳注:1980年代にBBCで放映されていたコメディ・ドラマ}に出てくるような嫌な感じの人でさ。ポーランド人で、いかれた金髪のウィッグ(かつら)を被ってた。その時何人か女の子がうちに泊まっていて、そのせいで売春宿をやってるんじゃないかって告発されそうになってね。で、家では「トランプ」だけは許された、と。まあ、相手はデイヴィッドとキースなんだけどね。

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