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Paul Dorrington : I Used to be in The Wedding Present
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 ポール・ドリントンは1991年10月、初代ギターリスト ピーター・ソロウカの跡を受けて加入した2代目ギターリストで1995年3月のフランスツアーを最後に脱退。あの1992年の月刊7インチ・ヴァイナル・シングル・シリーズ『The Hit Parade』はデイヴィッドをして「彼無くしてこの無謀なプロジェクトは貫徹できなかった」という巧者。実際、シンプルなプレイが身上だったピーターになかった新たなテキスチャを持ち込んだ柔軟なプレイがデイヴィッドのソング・ライティングの発展にもたらしたものは計り知れないものがありました。ちなみに現時点で最後の来日公演となった1993年3月のジャパン・ツアーの時のギターリストも彼、ポール・ドリントンです。[last modified 4th May, 2005 : Japanese translation by YOSHI@TWP-CINERAMA /Special thanks to all the crew on Something and Nothing.]


Q. TWPで過ごした時間を短い言葉で表現してください。

4年間のバンでの生活


Q. なぜTWPを離れたのか、その理由を正確に教えてください。

そのバンを降りなくてはならなかったから。


Q. TWPを離れてからしばらくの間、グループの一員として過ごした時の事で何か恋しくなった事があったら教えてください。

最初のうちはなんて事無かったんだけどね。時々ヨーロッパとアメリカのツアーが恋しくなったりはしたな。ギグをやるのは大好きだったんだけど、会場から会場への移動や道中はちょっと退屈になりがちでさ。でも冷たい雨がそぼ降る3月のヨークシャーを月曜日に離れて、水曜日には燦々と太陽が降り注ぐ南フランスの空の下でワインを飲みながら芳しいチーズを嗜むのは素敵だったねえ。アメリカを旅して回るのもいつもわくわくするものだったけどね。でも思い出すのは6週間もクタクタになったどんよりとした表情の6人の仲間と一緒に狭いところに閉じこめられていた事かな。ずっと起きっぱなしの凍えるような寒さでジメジメした欧州の冬は、それだけでツアーをキチガイじみたものにするんだよ。


Q. 何か後悔している事はありますか?時々まだグループの一員であったらいいな、と願った事は?

もうちょっと僕らが成功していれば大きな家と車とギターのコレクションが手に入ったのにな、って事かな。まあ後悔はないけどね。僕の人生であの時期にバンドの一員であれたのは幸運だったけど、あっという間に終わってしまったようにも感じてね。別に僕らはヴェトナムに行った入れ墨の入った歩兵隊みたいなものじゃなかったけど、よく夜中にうなされながら「怖い!悪夢だ!」って目を覚ました事はあったよ。


Q. あなたがTWPで最高の瞬間だったと思う楽曲、もしくはパフォーマンスはありますか?

ニューヨークのNBCスタジオで「Late Night with Conan O'Brien」の番組のために"Yeah Yeah Yeah Yeah Yeah"をライヴで披露したのは一生に一度あるかないかの一大イヴェントだったんだけど{訳注:1994年12月2日、第2シーズンのエピソード58への出演}、イギリス人だからTop of the Popsに出演したのはもっと大きな出来事だったね。子供の頃、Top of the Popsに出るのは夢だったろ?


Q. TWPでのフェイヴァリット・レコードを教えて下さい。
(a) あなたが参加しているもの と (b) 参加していないもの の両方で。

(a) たぶん"Loveslave"だな。{訳注:1992年The Hit Paradeシリーズ第10弾}あからさまにThe Jesus LizardとFugaziっぽいギター・パートがあるけど。この曲を演奏するのは本当に楽しかった。あとは"Spangle"もかな。{訳注:1994年作『Watusi』収録曲} この曲のほとんどはプロデューサーのSteve Fiskがキャプテン・ネモのテーマ音楽っぽいOptiganのオルガンを演奏しているんだけど、僕もエンディングでちょっとだけキーボードでアルペイジオを演奏している。あの曲のあのヴァージョンはアルバムを象徴するものだったね。あの何とも言えないチープなサウンドはプロデューサーのフィスクが1/4テープ・マスターに15 ipsの代わりに半分の速度である7.5 ips(インチ毎秒…おそらく前デジタル時代を知らない若いモンにはわからないでしょうな)で録音した結果だね。別に半分のスピードで録音されたから半分のクオリティになっただけの話で、彼が天才って訳じゃないからね。僕らと彼の間でいろいろ意思疎通の上で問題があってね、ちょっと残念な仕上がりだったね。{訳注:だがデイヴィッドにしてみればそのチープなプロダクション云々よりあの大胆なカリビアン・バラッド風のアレンジメントに於いて「プロデューサーとは何たるかを知った」、のちに「CINERAMAのアンソロジーを作る機会があったらその出発点として1曲目にくる曲」とまで言わしめた一大エポックとなった。}

(b) 『Seamonsters』


Q. どの会場/フェスティヴァルでの演奏が“背筋をゾクゾクとさせる”(良い意味でも悪い意味でも)ものでした?

パリで2000万のフランスのオーディエンスの前でやったThe Black Sessionsの時に『The Hit Parade』のカヴァーから何かやってくれないか頼まれた時だな。僕らはライヴではカヴァーはやった事がなかったから、神経を使ったよ。僕は"Rocket"のコードをA4大の紙に書き出して足下においておいたんだけど、突風が吹いてその紙がパリの歩道に散らばりはしないか心配しっぱなしだったよ。事前に飲んだ4パイントのクローネンバーグ・ビールのせいだったのかどうかはわからないけど。{訳注:The Black Sessionsとは1992年5月にRadio Franceのために行ったライヴ。TWPはオリジナルの少なかった極初期を除いてカヴァーを演奏したのはこの時と1990年の初の北米ツアーや同年のレディング・フェスティヴァルなど、数える程しかないので、非常に貴重な機会となった。またポールが後述している通り、フランスではやはりカヴァーの"Pleasant Valley Sunday"が大人気になるなど、TWPに関してはカヴァーの方が人気が高いようである。}


Q. デイヴィッド・ゲッジについて、ファンが知らない秘密があったら教えてください。

こういう事をインターネット上で発言するのはよからぬ事を引き起こすのでね。たとえ僕が覚えていようがいまいが。


Q. バンドを離れてからTWPかCINERAMAを観た事は?

バンドを離れてから何度か観ているし、CINERAMAも確か2回観てるかな。今年リーズでやった新しいTWPも見に行けたら行っただろうけど、何せ先立つものが無いのでね。


Q. 今現在デイヴィッド・ゲッジとはどういう関係ですか? まだTWPに再参加出来ると考えていますか?

CINERAMA/TWPを見に行った時くらいしか会う機会が無いし、普段から連絡を取り合う仲では無いよね。きっとそれが僕の所にPeel Sessionと『The Hit Parade』の再発CDが送られてこない理由だよ。もしくは僕がHMVに行かない限りそれが出ている事に気づかない訳だね。TWPへの再参加だって?だってCINERAMAが改名したじゃない。なんでデイヴィッドがDAVID GEDGEの名前でツアーしなかったのか?そうすればTWPでもCINERAMAでもどちらの曲でも好きなように出来たのに、って思うんだけどね。再結成なんて無理な話だよ。だってTWPは正味の話、回転ドアみたいにメンバーが入れ替わっていて、15人もステージにあげなくちゃならないからね。


Q. 近況を教えてください。

(TWPメンバーだった)サイモン・スミスとキース・グレゴリーと一緒にCha Cha Cohenのアルバムをレコーディングした後はしばらく音楽活動は一休みしていたんだけど、最近は(欧州最大のヘルズ・エンジェルズの集まりである)The Bulldog Bashに出演したBeachbuggyでベースを弾いた。いまそのBeachbuggyのDarren Belkと共にWalkerっていうバンドで活動している。それ以外はWEBサイトを制作したり、人にWEBサイトの作り方をレクチャーしている。まだまだ世界中にはWEBサイトが足りないみたいなのでね。


Q. あなたのロフトにはTWP関係のお宝がありますか?

自分がプレイしたレコードだって全部持っている訳ではないから、大して無いよ。Peel SessionのCDは送ってくれないのかねえ、デイヴィッドは。『The Hit Parade』のレーベル面に使われたオリジナル・アートワークといくつかTシャツが今でも取っておいてあるね。バンドにいた時の写真は箱いっぱいにあるし、それはいい記念になったな。1993年に日本に行った時のヴィデオ・ドキュメンタリーもある。あと1994年の時だったと思うけど、アメリカン・ツアーの始まった時に買った大きなロード・マップがある。僕らのショーの会場と会場へのルートに合わせて毎日線を引いてってね。このマップはアメリカのブッキング・エージェントの狂気の沙汰ぶりを証明するものだよ。考えてごらんよ、ミネアポリスからセント・ルイスまでたった一日で移動するんだよ(この場合650マイルぐらいだろ?って思うだろうけど、記憶が正しければサイモン(・スミス)はまる一日ノンストップでドライヴして、僕らは200マイル毎にコーヒーとサンドウィッチを差し入れしなくちゃならなかった)。


ポール・ドリントンだけへの質問

Q. 自分がバンドにいた時代に、TWPの方向性に(横柄に聞こえるでしょうが)どれくらい影響を及ぼすことができたと思いますか?

『Watusi』に関しては結構あるかな。例えば"Gazebo"や"Click Click"、"Big Rat"といった曲のオリジナル・アイデアの多くは僕から出たものだよ。ちょっと奇妙なアルバムだけど、僕らはああいう以前のTWPには全くなかったサウンドにしようとは思ってなくて、『Seamonsters』路線のスタイルに戻れればいいなと思ったんだけどね。僕らは曲をいくつか違うアレンジで録音した。エレクトリック、アクースティック、ブラスバンドを交えたもの、という風にね。で、どのヴァージョンを採用するか決めなくちゃいけなかった。僕自身は自分たちが達成した音のヴァリエーションは本当に気に入っているよ。それが一体どれほど自分の影響が及ぼせたのかはわからないし、当時はあの時点でのポップなスタイルにハマっていたんだけど、もうちょっと自分が積極的になっていたならよりパンキッシュにプレイしたいと思っただろうね。あの頃PavementやDrive Like Jehuみたいなバンドを聴いていて、ああいう風にプレイ出来たらなって思ってたからね。CINERAMAの作品から察するに、デイヴィッドは明らかにより明るいポップなサウンドを試みるようになったし、まあ良い時期にバンドを離れたとは思うよ。


Q. 振り返ってみて、月刊シングル・シリーズの『The Hit Parade』は成功ですか、それとも失敗ですか?

成功したかどうかってそんなに問題なのかね????素晴らしかったよ。だってギネス・ブック記録になったんだよ?シングルをシリーズとして出すのが主な目的だったけど、LPとしてまとめてしまったので大混乱を招いたのが残念だったよね。全てのシングルが発売されてからAサイドだけのLPとBサイドだけのLPを出すのが一番良かったんだろうけど、メジャー・レーベルの人間っていうのは普通の人とは違う考え方をするようでね。これに関して最高の出来事だったのはTop of the Pops(TOTP)への出演だ。(人気TV番組の)EastendersのセットがTOTPスタジオの裏手にあったんで、Albert Square広場周辺を僕らのバンでうろついてね。真のロックンロール・スピリットを持って、キース(・グレゴリー)と僕はセットのカフェのドアに自分たちの名前を書き殴ってやったよ。


Q. 『The Hit Parade』の12枚のシングルの中で一番お気に入りのA面曲/B面曲は?

お気に入りのA面曲:"Loveslave"と"Queen of Outer Space"両方。Slintの『Spiderland』を担当したエンジニアであるBrian Paulsonとの素晴らしいセッションからのものだからね。彼は驚くべきプロデューサー/エンジニアで、全てが本当にスムーズに進んだんだ。あの年はずっとツアーとリハーサルを重ねていて、サイモン(・スミス)とキース(・グレゴリー)と僕はほとんどの曲をライヴで、ファースト・テイクで仕上げなくちゃいけなかった。ああいうタイトなサウンドはいいね。あとQueenが"Bohemian Rhapsody"をレコーディングしたRockfields Studiosでもレコーディングをやったんだ。あの時(Queenのギターリストである)Brian Mayのスピリットが僕の中に宿っていたと思うね。

お気に入りのB面曲:"Pleasant Valley Sunday"だね。第一に、最初から最後まで1968年風にギターを弾かなきゃいけなかったから。第二に、フランスでこの曲が大人気になったおかげで僕らは20日間のフレンチ・ツアーができた。ヨーロッパでツアーする時は一つの国で多くても大体2、3日くらいだった時代だったからね。フランスではいつも楽しめたよ。そして第三に(人気TVドラマである)『Dawson's Creek』のドーソンがついに彼の映画を作る事になった最終回から2番目のエピソード{訳注:日本では「ドーソンズ・クリーク 青春の輝き」のタイトルで親しまれている本シリーズの第6シーズンに放映された第126話“Joey Potter and the Capeside Redemption”}でほぼ全編にこの曲が使われたから。自分の弾いたギターの音が自分が一番気に入っているアメリカのTV番組から聞こえてくる事に適うものってあると思うかい?

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