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Peter Solowka (aka "Grapper") : I Used to be in The Wedding Present
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 ピーター・ソロウカは1985年のTHE WEDDING PRESENTスタート時のオリジナル・メンバーで、メインマンのデイヴィッド・ゲッジとは中学時代からの付き合いとなる幼なじみだった訳ですが、1991年の傑作『Seamonsters』制作後に脱退し、現在は地元のLeedsで科学教師をやりながら、当初TWPと並行してやっていたThe Ukrainiansで活動中です。かつては親友だったはずのデイヴィッド・ゲッジに対するかなり辛辣なコメントが目立ち、「(脱退したのではなく)追い出されたんだ」「スケープゴートにさせられた」という躊躇しつつもかなり赤裸々な告白を交えたピーター脱退時のエピソードはおそらくこれが初めて明かされるもの。サイモン・スミス編とはまた違った、かなりこんがらがった心情が吐露されています。[last modified 28th April, 2005 : Japanese translation by YOSHI@TWP-CINERAMA /Special thanks to all the crew on Something and Nothing.]


Q. TWPで過ごした時間を短い言葉で表現してください。

とても愉しい、人生を変えた旅だった


Q. なぜTWPを離れたのか、その理由を正確に教えてください。

追い出されたんだよ!
公式にはギター・プレイヤーとしても今ひとつで、ソング・ライティングにもあまり貢献していなかったから、となっているんでね(デイヴィッドはあれ以来14年間、このネタを何度も繰り返し話さなくてはならないと考えてるみたいだね)。僕がしでかしたあれやこれやを事細かく書き記す事で、この時の思いをずっと引きっていこうって訳じゃないよ。ただ言えるのは自分が一体何者で、何に対して責任があるのかは知ってるし、こういうやり方にはあまり賛同しないって事だ。

ああいう事件が起きた背景は複雑だったけど、これから話す事にだってやるべき事が山ほどあったのは確かだよ。僕らは『Semonsters』のレコーディングを終えたばかりだったんだ…僕らの(RCAの皆様のご意見では)‘とても難解な’あのアルバムね。当時契約していたレーベルRCAは僕らのファン層だけではなくてもっと売り上げを伸ばす様な何かを必要としていたんだ。僕らはアルバムの出来には本当に満足してて、でもイギリスじゃいわゆる‘メガ・ヒット’にはならないだろう事も明らかに分かっていたんだけどね。僕らももっと真剣に彼らの非難を受け止めるべきだったんだろうな。一方で、以前に自分の発案でやったウクレイニアン・ミュージックはまだまだみんなの興味を惹いていてね。たまに取材を受けていて何とか今出ている新作の宣伝をしようとインタビュワーの(ウクレイニアン・ミュージックへの)質問を今出ているレコードに向けてみたりね。僕がまだそのウクレイニアン・ミュージックにつながりがあったものだから、RCAの連中はその元凶を取り除こうと考えた訳さ。何だかバンドがこれ以上没落しないためにスケープゴートにさせられたみたいだったよ。
{訳注:TWPはウクライナ人の血を引くピーターの発案で英国北部のウクレイニアン・コミュニティで愛されるロシアやウクライナの民謡、昔のブリティッシュ・フォークなどの伝承歌、愛唱歌をウクライナのトラディッショナルな楽器を交えたバンド・アレンジでカヴァーする通称“ウクレイニアン・フォーク・セッション”を1987年10月と88年4月の2回にわたり、BBC Radio 1"John Peel Show"の中で披露し、そのセッションをまとめた企画アルバム『Ukrainski Vistupi V Johna Peela』はウクライナ文化の復興運動ペレブドーヴァなど様々な時代背景もあり全英チャートで22位にランクされる程の大ヒットを記録したが、バンドが本格的に売れる以前=バンド本来の姿を世間一般に知らしめる以前にこういう特殊な企画アルバムによって知られてしまったばかりに、TWPはしばらくの間そのイメージを不本意にも引きずる事になった。また『Seamonsters』が発売された1991年5月はタイミング的にちょうどウクライナが当時のソ連から独立しようとしていた頃で(同年8月に独立宣言、実際の独立は12月)、過去にウクレイニアン・フォーク・セッションをやったTWPへの興味が、新作へのそれとは違った意味で、改めて集まった時期でもあった。ここでのピーターの話は、もし真実だとすれば、レーベルとしてプロモーション戦略がスムーズにいかなかった責任をRCAに取らされた、という事になるのだろう。}


Q. TWPを離れてからしばらくの間、グループの一員として過ごした時の事で何か恋しくなった事があったら教えてください。

TWPでいたことで最高だったのはライヴだ。ファンからのレスポンスが大好きだったんだ…みんなが喜んでくれれば僕も嬉しかった。レコードは作った場合は、それが聴く人にもたらす喜びは想像するしかないけれど、ライヴだったら実際に間近に観られるからね。


Q. 何か後悔している事はありますか?時々まだグループの一員であったらいいな、と願った事は?

いや、グループとしてできる事はやり尽くしてしまったからね。まだグループの一員であれたら、なんて思ったりはしないよ。全ては…特にポップ・グループは、だけど…いずれ終わりを迎えるものだし、TWPは長続きしすぎたと思うよ。唯一悔いがあるとすれば、やっぱり僕がグループから追い出されたというそのやりクチで、僕とあのウクレイニアン・アルバムを発端とするいざこざだったという事でね。(『Seamonsters』は)RCAで秋にはリリースしなくてはならなくて、でもリリースされたのは僕が離れた後で。それがギグとレコードを売ることをまた困難にさせた。

(当時のメンバー)デイヴィッドにサイモン(・スミス)、キース(・グレゴリー)は僕の願いや計画を一切聞き入れてくれなかった。5年も一緒のチームにいたというのにさ!特にデイヴィッドには失望したよ。学生時代からの友達だったからさ。20年経ったことだし、ヤツからもうちょっと見返りを期待してるよ。


Q. あなたがTWPで最高の瞬間だったと思う楽曲、もしくはパフォーマンスはありますか?

1989年(もしくは90年かな?)にレディング・フェスティヴァルで"Take Me"を演奏したことを思い出すよ。あの曲の時はステージでデイヴィッドとキースがよくダンスしてたもんでね。"Take Me"はワイルドなダンス・タイムに最高の曲だった。もんどり打って、激しく引っ張り合って、フラフラになりながらね。そしてステージ上では笑い声と笑顔が絶えなかった。最高の瞬間…かどうかは分からないけど、まあ唯一思い出せることなんでね!


Q. TWPでのフェイヴァリット・レコードを教えて下さい。
(a) あなたが参加しているもの と (b) 参加していないもの の両方で。

順番に行けばまず『Bizarro』が僕のフェイヴァリットだ。アッパーな曲ばかりだからね。デイヴィッドの1991年以降の作品もほとんど聴いてるよ。中でもお気に入りはCINERAMAでの"Wow"と"Apres Ski"だな。{訳注:いずれも2000年の2ndアルバム『Disco Volante』収録曲}


Q. どの会場/フェスティヴァルでの演奏が“背筋をゾクゾクとさせる”(良い意味でも悪い意味でも)ものでした?

疑いなくロンドンのTown and Countryクラブでのイベント"Vesilnee Podarunok"、ウクレイニアン・ヴァージョンのTWPのパフォーマンスだね。あれは特別なギグだったんだ…フルチャージ・ヴァージョンのウクレイニアン・フォークで民族衣装を着たウクレイニアン・ダンサーたちが踊ってるのを見たしね。「あなたってウクライナ系の人なんでしょ…素晴らしい国よね、綺麗な丘陵地に音楽に…でも弾圧的な政府なのよね」って話かけられてるんだけど言葉が分からないんだよ。そういう楽屋にいることを想像してみてよ。あの国の音楽を学んで言葉が話せても、U.K.ではほんの少しの人しか君の言ってる事が分からないんだ。でもそういう何千人の人たちがその文化的な遺産を受け入れているというのが分かったのは素晴らしい体験だった。

あれが真の意味でウクライナの本当に音楽的なムーヴメントの始まりだったんだ。カセットがいろんな人の手に渡り、ダビングされて広まっていった{訳注:ここでの“カセット”とはそのフォーマットでも発売されていた『Ukrainski Vistupi V Johna Peela』の事を指しているとも取れるが、文脈的には当夜のライヴを非公式に収録したブートレグのカセットが存在していたんじゃないだろうか?と想像する。}。サウンドは革命的で、今まで決して容認されなかった伝統的なものと西洋のものがミックスされたものだった。今じゃ、それは当たり前になったけど…Ruslanaは(ウクライナの)ポップとフォークをミックスしたものをやってEuropean Song Contestで優勝した。彼女が自分の部屋に"Vesilnee Podarunok"のポスターを貼っていたら、なんて想像するのが好きでね。

そしてあの時のギグが今僕がやっているThe Ukrainiansのコンセプトを実現させたんだ。世界中でやった600回のショーに6作のアルバムとね。あのギグに関わった全ての人に感謝してるよ!


Q. デイヴィッド・ゲッジについて、ファンが知らない秘密があったら教えてください。

彼が音楽的なキャリアをスタートさせたのは1972年のマンチェスター、ミドルトンのHollin高校の時に13歳の女の子の気を惹くためにポップ・ソングのカヴァーをやった時の話だ。雨降りのお昼時に、デイヴィッドと僕はスクール・ディスコをやるホールで演奏したんだよ…MudにSlade、Gary Glitter、Marc BolanにDavid Bowieに。それをテニス・ラケットをギターに、筆箱をマイクにして演奏したんだ!


Q. バンドを離れてからTWPかCINERAMAを観た事は?

(脱退した)1991年以来TWPは2回観ている。CINERAMAも同様に。つい最近“新しい”TWPをリーズに見に行ったよ。本当に誇らしく思えたよ…ショーは大盛況で、CINERAMAの時より人が大勢詰めかけててね。みんなあのTHE WEDDING PRESENTを見に来ていたし、来ている客層の年齢から判断するに、おそらくその大半は80年代後期に活動していたバンドを見に来た人たちだったんだろう。ステージでは1992年以前の3作から演奏して、残りは1992年以降のTWP、CINERAMA、そして新しいアルバムからで。

観客の反応にも違いがあったよね。やっぱり昔の曲の方により好意的な反応が多かった。僕らが80年代にやってた事を見に来た人が大勢いたのが分かって、気分は良かったけど、でもそれは同時にちょっと悲しい事でもあったね。何人かのファンはその名前のせいで、本質的にはCINERAMAがTWPのカヴァーをやるショーを見に来させられた訳だから。


Q. 今現在デイヴィッド・ゲッジとはどういう関係ですか? まだTWPに再参加出来ると考えていますか?

結構頻繁にe-mailをやりとりする仲だよ。ここ5年くらいは実際に逢って話した事は無いけれど、もし逢っていたんなら、今でも笑って話せる、そんな感じ。と言ったら聞こえはいいだろうけど、でも実際にはそうじゃないし、そうなりそうもないかな。とにかく、デイヴィッドは実際的なやつなんで、きっとオリジナル・メンバーが一堂に会するような機会は彼に恩恵をもたらすだろうと思ってるはずだし、僕もそれは喜んでやるのは彼はわかってるよ。{訳注:ただし、デイヴィッド自身は度々商業的なリユニオンに対しては否定的な見解を示しており、ここでのピーターの発言はやや一方的な思い込みが過ぎる気がする。}


Q. 近況を教えてください。

現在はフルタイムで家族と一緒に中学の科学教師をやってる。音楽的にはThe Ukrainiansで現在もライヴやレコーディングをやっているけど、今はちょっと機会が減って年10〜20回くらいのショーをやるくらいかな。家族の協力があっても、この仕事だけじゃまだ全ては賄えないけどね。毎年かそれに近いペースでアルバムをリリースしていて、世界中でほんの僅かながら売れてはいる。


Q. あなたのロフトにはTWP関係のお宝がありますか?

面白いことに、自分が関わったレコードは全部2枚ずつ持ってるんだ。一度泥棒に入られた事があったんだけど、直ぐにそのアルバム/CDが盗まれてないか屋根裏部屋に確認しに走ったよ。そのTWPコレクション以外は全て持って行かれちゃったけど…それが一体何を意味するのかは考えてもわかりませんがね!


ピーター・ソロウカだけへの質問

Q. ニックネームの“Grapper”の由来を教えて下さい。

1985年にバンドが結成されたとき、ちょうどストライキに入っていた炭坑の支援をしていたんだよね。よくペッタンコな帽子とリーズ労働組合のスカーフを巻いてて、ドラマーのショーン(・チャーマン)が南部の‘古めかしい’服装の組合員の家の出で、そういう格好をする人を南部のアクセントで“grapper”って呼んでたんだ。別に僕がバンドの中で4ヶ月年長さんだったからって訳じゃないよ。


Q. あなたがバンドを離れてからも、財務管理的な役割を続けていこうという事だったと思うんですが?

2年間くらいはそうしたよ。実際簿記をやったり会計士のために数字を提出したり。例の1年に12枚のシングルをやる企画でしくじってバンドがRCAから放り出されて前ほど忙しくなくなってからはデイヴィッド自身がそれをやる時間ができてね。偶然にも僕もちょうどThe Ukraininsの方が忙しくなってきた所だったから、辞めるのは簡単だった。

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