The Hit Parade
THE HIT PARADE
Catalogue No.:82876 503952

Released in 17th February, 2003

TRACK LISTING

Disc 1: A-sides
1. Blue Eyes
2. Go Go Dancer
3. Three
4. Silver Shorts
5. Come Play With Me
6. California
7. Flying Saucer
8. Boing!
9. Loveslave
10. Sticky
11. The Queen Of Outer Space
12. No Christmas

Disc 2: B-Sides
1. Cattle And Cane
2. Don't Cry No Tears
3. Think That It Might
4. Falling
5. Pleasant Valley Sunday
6. Let's Make Some Plans
7. Rocket
8. Theme From Shaft
9. Chant Of The Ever Circling Skeletal Family
10. Go Wild In The Country
11. U.F.O.
12. Step Into Christmas

ライナーノーツ(日本語訳)

振り返ってみると、この上なく素晴らしい“アイデア”の様に思えた。“アイデア”とはそもそも具現化される事が前提のはず。だが我々の社会ではアイデア倒れに終わる物事が多い訳で、それがミュージシャンやレコード会社ならばなおさらだ。例えば、1年間に12枚の7インチ・シングルを、それぞれの内容に関連づけたアートワークを施して、15,000枚の限定プレスでリリースするという事。それ自体は実に単純明快。結局その“アイデア”は実行に移され、忠実なファンたちに支えられ12枚のヒット・シングルを生み、蒐集家たちの手を渡り、そして・・・歴史はこの様に作られた。確かにマイナーな歴史、多分に些末過ぎるものだ。でも、人生の成り立ちとはそういうものじゃなかったけね?

デイヴィッド・ゲッジ『みんな僕らがファンタスティックな計画を持っていると捉えていたみたいだね。ミュージック・ビジネスに対する挑戦とかチャートの存在を滅亡させるものとか、もしくは7インチ・シングルのチャンピオンになる様なものとか。でもそういう意図は大して無くて、たまたまあの当時やってみるには相応しいタイミングだったというだけでね。Sub Popレーベルだってシングルズ・クラブを持っていたし、たぶんBlast Firstレーベルもだったかな・・・そういったものに影響を受けた。実際のところ誰が言い出した事だったのかな・・・(ベースの)キース(・グレゴリー)だと思う。ただ一旦それを考え出した以上、後には引き下がれなかったね。“全部7インチ・シングルで行く事にするよ。なにせ最強最適のポップ・フォーマットだしね。あとB面は全部カヴァーで、ヴィデオ・クリップも作って、あとT-シャツも付けようか!”みたいな感じだったな。ともかく、ただ単に次のアルバムのために曲を書くよりも興奮出来るプランに思えたんだ。』

ザ・ウェディング・プレゼントはそのキャリアの中でも奇妙な段階にあった。音楽プレスは相変わらず彼らを“新しいスミス”に仕立て上げようとしていた。ジャーナリストたち(そう、移り気で滑稽な連中だ)はアメリカへ、シアトルへ、そしてSonic YouthやPixies、スティーヴ・アルビニのBig Black、そしてザ・ウェディング・プレゼントといったグループに影響を受けたノイズ・サウンドの勃興へと目を向け始めた。ゲッジとその仲間達は実際には初期のInternational Pop Underground[訳注:アメリカ・オリンピアを拠点とするKレーベルが1987年に始めた7インチ・シングルのシリーズ。Teenage FanclubやThe Pastels、Built to Spill、Unrestなどが名を連ねる→参考サイト]から主な影響を受けていたが、誰もその事を指摘しようとはしなかった。誰一人として、そんな過去のルーツに目を向けさせようとはしなかったのだ。

デイヴィッド・ゲッジ『1992年の話。僕らはプロジェクトの進行に合わせて曲を書いていった。すべてを準備万端にしておくよりその方が良いと思ったからだけど、正味の話、この計画が思いついたのは1991年の10月だったから、もう待ったなしの状況だったんだ!当初3曲があって、それが最初の3枚のシングルになった。その他の曲を3無いし6曲、4回のレコーディング・プロジェクト用に振り分けて、それぞれ最後まで貫徹させた。(所属レーベルだった)RCAには予算を抑えられて助かっただろうね。彼らのインフラを使っていた訳だから。』

僕はデイヴィッド・ゲッジに対してやっかみを持って、この“Hit Parade”当時に痛烈情け容赦ないレビューを書いたものだった。PavementやSmog、Superchunkの様な別のU.S.バンドのサウンドを借りてきた感じ(考えてみると、実際には反対だった訳だが)のそれぞれのシングルの出来に対して満足出来なかった。で、実際そんな風に書いた。それはU.K.産のシューゲイザー・バンド、Lushの燃えるような赤毛の小娘、ミキの様な流行りのアーティストに“私のパンチをあの馬鹿に食らわせてやるわ”と言わせるような、またはサーストン・ムーアが実際に肉体的な暴力で脅しをかける様な、当時の自分が書いていた今では飯の種にもならない典型的なやり口の文章だった。でもデイヴィッドは抗議の声を上げなかった。次に逢った時にセクシーと呼ぶにはやや毛深いその目元をひそめてみせただけで、それはまた僕が彼の音楽を好きになるだろう事を確信させた出来事だった。

デイヴィッド・ゲッジ『何度か窮地に達して、このプロジェクトを貫徹出来ないんじゃないかって思った事もあったよ。でも潜在的な原則があった。音楽そのものを蔑ろにするものでは無いってね。もしその曲がA面曲に相応しくないクオリティであれば止めるつもりだった。でも僕は全部のA面を支持するよ。唯一「No Christmas」に関しては心配だったんだけど、今回リマスターした時に、なんてドラマティックで美しい曲だったんだ!なんて思ったんだけどね。』

僕は初期のウェディング・プレゼントの独特なウォール・オブ・ギター・サウンドや張りつめたヴォーカル、影響力の強い80年代初期のスコティッシュ・バンド、Orange Juiceからの影響をやや覗かせながら(と僕は思っていたしそれは大した問題ではないが)もソウルに満ちた演奏と共に奏でられる失恋物語に心酔していた。The Smithsとの比較は全く理解に苦しむ。デイヴィッドは悲劇に溺れる巧者ではなかった。僕にしてみれば、ザ・ウェディング・プレゼントとはジョン・ロブが率いていた前グランジ時代のバンド、Membranesの同種であり、例えばそのフェミニンで繊細な詞を持ったNirvanaの登場を予兆したバンドの1つでもあった明らかな“ロック・バンド”であった。そして何よりも重要なのは、ザ・ウェディング・プレゼントは僕の足を踊らせたバンドであった。出来れば生涯かけて部屋の隅に隠しておきたいThe Smithsにはできなかった事だ。

デイヴィッド・ゲッジ『B面曲を選ぶのは大変だった。メンバー全員カヴァーしたいお気に入りがあったからね。The Go Betweensの「Cattle and Cane」、僕の生涯のフェイヴァリット・ポップ・グループであるAltered Imagesやら。これらのオリジナルに手を加え過ぎたんじゃないかなとも思ったんだけども。カヴァーの中で一番の自慢は「Pleasant Valley Sunday」。僕はずっとThe Monkeesのファンだったからね。The Beatlesよりもマシだったって言いたいし、そこに関しては議論の余地を残しておきたいね。勿論、現実にはそうじゃなかったけど。実際、自分たち自身で曲を作り始めるまでは最高だったと思うよ。』

言うまでもないだろう。そのカヴァーはパワフルで熱烈で、原曲の作曲者たちが意図できなかった方向性と生命を吹き込み、スピーカーを焼け焦げさせるほどのものになった。そう、ザ・ウェディング・プレゼントが見せてきたいくつかの素晴らしい瞬間と同じ・・・“頭に血を昇らせる”[訳注:原文での表現は“a rush of blood to the head”...Coldplayの同名作に引っかけたもので、偶然にも同作はHit Paradeシリーズの一部が録音されたParr Streetスタジオで一部制作を行っている。](そして自ずと足が踊り出す)あの感じだ。

デイヴィッド・ゲッジ『だんだんシャレにならない事態になってきた。カヴァーのネタが尽きた、もしあっても上手くいかない状況に陥ったもので、頭を抱え始める事になった。あったのはMudの曲(「Rocket」)で・・・学校のディスコで「Tiger Feet」[訳注:やはりMudの曲]を踊ったのを思い出したね。あと“Twin Peaks”のテーマ「Falling」ね。オリジナル版は面白かったけど、あのTVシリーズの雰囲気には合ってないな、と思っていたんだよね。僕らのカヴァー・ヴァージョンの方がより不気味な響きがしていいだろ?で「別にやっちゃいけない事なんで無いんじゃない?」って考え始めてね。例えば「シャフトのテーマ」とか。白人の英国人のお坊ちゃまたちが黒人のアメリカン・ファンクをやる、みたいな。これはチャレンジだったね。』

ゴスペル・ミュージックの素晴らしい慣例と同様、ゲッジは常に来る福音を求めた・・・終わってしまった恋愛の傷心に耐え、否応の無い妄想、タチの悪い冗談から逃れもがく為の“福音”だ。その福音は“歌”というより“叫び”であった。気取った男性ロッカーたちが多少恩恵を被っている自意識の強いやり方ではない叫び...。

デイヴィッド・ゲッジ『シングルのいくつかはヒットするだろうって薄々感じてはいたけれど、まさか全部がヒットするなんて思いもしなかったよ。ラッキーだったのは、あの企画がみんなの興味を惹いたって事だね・・・RCAは心配してたけどね。今まで7インチ・シングルで儲けが出た事なんて無かったんだから。でもメディア受けしやすいアイデアとウェディング・プレゼントがレコーディングしたものが普通通りに買えなくなるだろう事を意味する限定プレスという組み合わせだったのが良かったのかも。一旦買い始めて、最初の3枚にガッカリしても、残り9枚がある。あのシリーズで僕ら最大のヒット「Come Play With Me」も出たしね。あれが唯一、TOP 10入りの面倒に巻き込まれた機会だった。』

ザ・ウェディング・プレゼントが登場するまでは、全てのロック・スターが男根主義的な、Iggy PopやMick Jaggerスタイルの卑しいほら吹きが理想である様に見えたものだった。だがあんな風に自分の魅力をアピールするのに頭やナニを使うだけの意味があるかい?そうは思わないね。きっと何杯かの安っぽいビールにありつけて、阿呆くさいフォロワーになるだけだ。

デイヴィッド・ゲッジ『僕はずっとコミック本のファンだったからね。コミックでよくある年間通してコレクションするというシリーズのアイデアは魅力だったし、まさに“Hit Parade”はそういうものだった。ポップ・ミュージックの世界では普通やらない類の事だけど、何で誰も真似しないのかな、って不思議だったよ。確かに困難を伴うし、大した儲けにもならないよ。今じゃ大抵のレーベルは価値を見出さないだろうね。』

Everett True (2002年12月)
Japanese translation by YOSHI@TWP-CINERAMA

内容解説 [YOSHI@TWP-CINERAMA March 17th, 2003]
 最初ライナーノーツを訳出するだけにしようかと思っていたんですが、考えてみたら細かい内容についての解説が一切無いんですな。このサイトを隅から隅まで読んで頂いた方(...いるとすれば、の話ですが)には周知の事実ばかりでしょうがシングル集という性格の事もありますので、初めての方にも出来る限り分かりやすく、掻い摘んで紹介していきます。

HIT PARADEプロジェクトについて
 改めてこの企画について説明しておくと、1992年の1年間かけて毎月第一月曜日に限定プレスの7インチ・ヴァイナル盤のみでA面新曲、B面カヴァーのシングルをリリースしていく、という未だにどう考えても採算度外視のプロジェクト。これがインディーズではなく、大メジャーのRCAからのリリースだった、というのがまた話題になりましたが、そのプレス枚数については一応今現在(このライナー中でも触れられている通り)公表数は各15,000枚とされてます。が、実際には最初の2枚、「Blue Eyes」と「Go-Go Dancer」に関しては10,000枚だった様です。これはもうRCAの目算に誤りがあった事が原因で(そんなに売れると思ってなかったんでしょうな)、あっという間に売り切れになり、また小売店側で隠しておいてしばらくしてから値段を上乗せして店頭に並べるという悪質なプレミア騒ぎが発生した事もあって、3枚目の「Three」から現在の公表数15,000枚にプレス数を増やした(そしてシリーズ途中の1992年6月に当初予定されていなかった第一弾の編集盤『HIT PARADE 1』を早々とリリース)、という経緯が真相でしょう。実際最初の2枚は海外の中古もののオンライン・ショップでは他のタイトルに比べてやや高めの価格設定が為されている所が大半です。でもまあ、本質とは関係の無い些末な事です。プレス数はどうあれ、全12枚が当事者も予想だにしなかった全英シングルズ・チャートTOP 30入りを果たし(うち1曲はバンド史上でも初のTOP10ヒット)、1年間のチャートイン記録としてElvis Presleyが保持していた最高記録に35年ぶりに並ぶものとなりました。しかしElvisのがほとんどリバイバル・ヒットだった事を考え合わせると、新曲のみで達成したこの記録は前人未踏と言ってもいいものです。
 なおライヴ会場と通販でのみ、全12枚が収納出来るカートン・ボックス付きのセットが僅少ながら発売され、今回のリイシューのジャケットはそのボックスの表紙を模したものになっています。

 では簡単にシングルの解説に移ります。曲についてはオリジナルはもちろんキャリア上でも屈指の名曲揃いですし、カヴァーの解釈も含め文句なしに素晴らしいので(というか、もはや客観的になれないほど溺愛の度合いが激しいので)多くは語りません。

No.1:Blue Eyes [Disc 1-#1] / Cattle and Cane [Disc 2-#1]

Blue Eyes
1992年1月6日発売。全英シングルズ・チャート最高位26位。ここから3枚のプロデュースはChris Nagle(The Durutti ColumnやJoy Division、New OrderなどFactoryレーベル系アーティストのエンジニアリング、このHit Parade時代にはCharlatans、Inspiral Carpetsをプロデュースしていた)。B面カヴァー原曲はThe Go-Betweensが'83年2月にRough Tradeレーベルからリリースしたシングル。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「one」は米1ドル札から。なお、最初の編集盤『HIT PARADE 1』がアメリカで当時BMGの提携レーベルだったFirst Warningからリリースされた際、プロモ盤のみでレディオ・リミックスが配布され、1999年に米カリフォルニアのインディーズManifestoからリリースされた英RCAレーベル音源の2枚組の編集盤『SINGLES 1989-1991』[Manifesto MFO-40305]で初めて公式にCD化されました。

No.2:Go-Go Dancer [Disc 1-#2] / Don't Cry No Tears [Disc 2-#2]
Go-Go Dancer
1992年2月3日発売。全英シングルズ・チャート最高位20位。B面カヴァー原曲はNeil Young1975年発表のアルバム『Zuma』収録の名曲。同じイギリスではTeenage Fanclubもカヴァー。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「2」は懐かしのTV人形活劇『サンダーバード』2号の機体。

No.3:Three [Disc 1-#3] / Think That It Might [Disc 2-#3]
Three
1992年3月3日発売。全英シングルズ・チャート最高位14位。B面カヴァー原曲はデイヴィッドのフェイヴァリット・グループ、Altered Images1982年発表のアルバム『Pinky Blue』収録曲。彼女たちのベスト盤にも入っていない地味目の曲を取り上げている辺りがデイヴィッドのこだわりを感じさせますが、友人のDJ、ジョン・ピールも頻繁にかけていたバンドの1つだったそうです。ちなみにWeddoesが同一バンドの曲を2度カヴァーした唯一の例もこのバンド。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われた数字「3」は当初Led Zeppelinの「Led Zeppelin III」のジャケット(のおそらく「III」の部分)を使用しようとしたものの、Zeppelin側から5000ポンドを請求されそうになったため、結局当時のギターリストPaul Dorringtonが持っていたタイプライターから取られた、というエピソードが残されています。で今回のリイシュー盤でジャケット・デザインのクレジットでお馴染みのHitch(=Jonathan Hitchen)に加え、Paul Dorringtonがクレジットされています。

No.4:Silver Shorts [Disc 1-#4] / Falling [Disc 2-#4]
Silver Shorts
1992年4月6日発売。ここから3枚のプロデューサーは名匠Ian Broudie(自らLightning Seedsとして活動する他、Echo&the BunnymenやThe Fall、Sleeper、The Pale Fountains、The Primitives、Dodgy、Terry Hallなどなど、枚挙に暇無しの仕事量を誇る)。全英シングルズ・チャート最高位14位。B面カヴァー原曲は当時大流行のデビット・リンチのTVドラマ"Twin Peaks"に使用されていたJulee Cruiseの"Falling"。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「4」はThe Fantastic Fourというアメリカン・コミックのヒーローの胸についているマーク。コミック好きのデイヴィッドのアイデアでしょうね。

No.5:Come Play With Me [Disc 1-#5] / Pleasant Valley Sunday [Disc 2-#5]
Come Play With Me
1992年5月4日発売。全英シングルズ・チャート最高位10位。言うまでもなく、TWP史上最大のヒット曲。僕も本シリーズのフェイヴァリットがこれです。B面カヴァー原曲はThe Monkees1967年7月の全米Top3ヒットでGerry Goffin/Carole kingの黄金ヒット・コンビのペンによるもの。今回のライナーでデイヴィッドが一番気に入っているカヴァーである事が明かされています。当時フランスではこのカヴァーがラジオ局を中心に大ヒットになり、結果翌1993年2月にはフランス国内だけで20日間にも及ぶツアーを敢行。これは当時イギリスのバンドとしては異例中の異例とも言えるスケジュールでした。また発表から8年近くが経過してこのカヴァーが再度注目を集めます。米WBネットワークスで1998年から放映されていたTVシリーズ『Dawson's Creek(邦題“ドーソンズ・クリーク 青春の輝き”)』の第6シリーズ第126話“Joey Potter and the Capeside Redemption”(最終回から2番目のエピソード)の中で大々的にフィーチャーされたのです。当時のギターリストPaul Dorringtonはこのドラマの大ファンだったそうで、大変喜んだそう。「自分の弾いたギターの音が自分が一番気に入っているアメリカのTV番組から聞こえてくる…これに勝るものってあると思うかい?」(Paul Dorrington談)
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「5」は英国TV局のチャンネル名から。

No.6:California [Disc 1-#6] / Let's Make Some Plans [Disc 2-#6]
California
1992年6月1日発売。全英シングルズ・チャート最高位16位。B面カヴァー原曲はWeddoesとは同期であの『NME C86』をはじめ、様々なオムニバス盤で一緒に名前を連ねる事が多かったスコティッシュのバンド、Close Lobsters1987年発表のシングル。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「six」はBar 6というチョコレートの包装紙から。

No.7:Flying Saucer [Disc 1-#7] / Rocket [Disc 2-#7]
Flying Saucer
1992年7月6日発売。全英シングルズ・チャート最高位22位。プロデューサーはRolling StonesやTrafficで有名な名匠中の名匠、故Jimmy Miller。当時Primal ScreamやThe Real Peopleなどわりと若手のバンドの作品で見かける機会が多かった事が思い出されます。タイトル曲に関しては今では有名なエピソードですが、1993年1月にシリーズ後半部をまとめた編集盤アルバム『Hit Parade 2』発売の際、7インチ盤の"Flying Saucer"のイントロに入っていたハーモニクス奏法で演奏された2秒ほどのあるフレーズが問題となりカットされています。そのフレーズとは映画『未知との遭遇』(原題Close encounters of the third kind:1977年度スティーブン・スピルバーグ監督作品)の地球人と異星人が交信する場面で印象的だったあのメロディを模したもの。そもそも限定プレスだったシングルならまだしも、永続的なカタログとして残される可能性の高いアルバムとなると話は別だったようで、莫大な著作権料を要求されるのを懸念して自主的にカットしてしまったそうなのです。おそらくは当時予定されていた北米での発売を見越しての処置だったんでしょうが、皮肉にも契約していたFirst Warningの消滅によってリアルタイムでは発売されず、彼の地では95年になってからようやく発売されています。
 よって厳密に言うとこのオリジナル・シングル・エディットは未CD化(ただしプロモーション盤CD『Hit Parade 7, 8, 9』[RCA WED3]で聴く事はできます)。なお、曲中で聞かれるU.F.O.の飛行音のS.E.は60年代のSF-TV番組『U.F.O.(邦題:謎の円盤U.F.O.)』の劇中で使用されていたものをサンプリングしたもので、そのテーマ曲はこのシングルの4ヶ月後にリリースされた"The Queen Of Outer Space"のカップリングでカヴァーされています。B面カヴァー原曲は70年代後半に活動していたグラム・ポップグループMud1974年夏のヒット・シングルで、曲の作者とプロデュースにクレジットされているのはBlondieやThe Knuckの仕事で名を挙げたMike Chapman。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「7」は清涼飲料水の7UPの缶から(「Led Zeppelinのに比べて、許諾を取るのは実に簡単だった」とはDavidの弁)。

No.8:Boing! [Disc 1-#8] / Theme From Shaft [Disc 2-#8]
Boing!
1992年8月3日発売。全英シングルズ・チャート最高位19位。プロデューサーは前作に引き続きJimmy Miller、だがなぜか1993年1月発売の編集盤『HIT PARADE 2』発売時にこの"Boing!"以降のシングルを手がけるBrian Paulsonの元で再録音された別テイクに差し替えられ、今回のリイシューでもJimmy Miller版では収録されませんでした。録音をやり直した理由は定かではありませんが、出来は明らかに再録ヴァージョンの方に軍配が上がります。なので厳密に言うとこのオリジナル・シングル・ヴァージョンはこれまた未CD化(ただし、これまたプロモーション盤CD『Hit Parade 7, 8, 9』で聴く事はできます)。B面カヴァー原曲は70年代のブラック・ムーヴィーの古典「Shaft」のテーマ曲でオリジナルはもちろんIsaac Hayes。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「8」はビリヤードの玉から。

No.9:Loveslave [Disc 1-#9] / Chant Of The Ever Circling Skeletal Family [Disc 2-#9]
Loveslave
1992年9月7日発売。全英シングルズ・チャート最高位17位。ここからラストまではSlintの1991年作『Spiderland』を聴いてその仕事ぶりが気に入ったというBrian Paulsonをプロデューサーとエンジニアに起用。今でこそU.S.オルタナティヴ史に残る孤高の傑作として名高いSlintの作品にいち早く注目していたという事実にも驚かされますが、Brian自身このThe Hit Paradeシリーズ以降、Archers of Loafの名作"All the Nation's Airports"をはじめ、Beckの"Odelay"、Dinosaur Jr.の"Hand It Over"、Babes in Toyland、Gastr del Sol、Superchunkなど数多くの機会でプロデューサー/エンジニアとして活躍しています。B面カヴァー原曲はDavid Bowie1974年発表のアルバム『Diamond Dogs』のラストを締め括っていた小品。B面曲の中では例外的にプロモPVが作られ、現在絶版のヴィデオ・クリップ集『Dick York's Wordrobe』[RCA 74321 12337 3]で見ることができました。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「IX(nine)」はApollo 9号から。

No.10:Sticky [Disc 1-#10] / Go Wild In The Country [Disc 2-#10]
Sticky
1992年10月5日発売。全英シングルズ・チャート最高位17位。B面カヴァー原曲はBow Wow Wow81年のヒット。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「ten」は英国のあるTV局で放送されていた夜10時のニュース番組のタイトル画面から。

No.11:The Queen Of Outer Space [Disc 1-#11] / U.F.O. [Disc 2-#11]
The Queen Of Outer Space
1992年11月2日発売。全英シングルズ・チャート最高位23位。タイトルの"The Queen of Outer Space"は実在する映画の作品名で、1958年公開のアメリカ産SF作品とのこと。実際にその映画からインスパイアされたというシュールな歌詞も印象的。Brian Paulsonと組んだ楽曲の中でも取り分け評価の高い1曲がこれで、個人的にもこの第3期Weddoesの到達点と言うべき傑作だと思っています。B面カヴァー原曲は先に触れた60年代のSF-TV番組"U.F.O."のテーマ曲。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「11」はWeddoesのデビュー・アルバム『George Best』にも登場した伝説のサッカー選手George Bestのユニフォームから。

No.12:No Christmas [Disc 1-#12] / Step Into Christmas [Disc 2-#12]
No Christmas
シリーズ最終作は1992年12月7日発売。全英シングルズ・チャート最高位25位。クリスマスを意識したオレンジの蛍光カラー・ヴァイナル盤でした。B面カヴァー原曲はElton Johnのクリスマス・ソング・クラシックス、ですがこの曲は元々前年1991年暮れに米First Warningから発売されていたクリスマス企画盤『A Lump of Coal』に提供されていたもの。なお、プロモPVが前出のヴィデオ・クリップ集『Dick York's Wordrobe』に収められています。
 ジャケットのピクチャー・スリーヴに使われたクローズ・アップの数字「twelve」はクリスマス・スタンプから。ちなみにタイトル曲は発売前の1992年11月2日に放送されたBBC Radio 1 "Mark Goodier Show"でのセッションで披露された際は歌詞の無いインスト・ヴァージョンでした。その貴重なセッション・テイクは1997年に発売された『EVENING SESSIONS 1986 - 1994』[Strange Fruits SFRSCD029]で聴くことができます。


Hit Parade時代のアウトテイク
今回のアルバムには収録されていませんが、このHit Parade時代に生み出された興味深いアウトテイクが残されているので、ついでに紹介しておきます。いずれも来るアルバムへの布石となる、という点で符号の一致を見るトラックばかりです。

Signal
オムニバス盤『Volume 5』[Worlds End V5CD]にて初出のカヴァー・ソング。そのオリジナルはPell Mellというユニットで、実はWeddoesとは次プロジェクトである1994年作『WATUSI』をプロデュースする事になるSteve Fiskが在籍するプロデューサー/エンジニアズ・ユニットです。"Signal"はシアトルのインディーズ・レーベルSSTからリリースされている'91年作『Flow』に収録。おそらくB面用にレコーディングしてお蔵入りしたものと思われます。現在は1999年に米カリフォルニアのインディーズManifestoからリリースされた英RCAレーベル音源の2枚組の編集盤『SINGLES 1989-1991』[Manifesto MFO-40305]で聴けます。

Undercurrent
英音楽誌"Ablaze!"の付録として封入されていたというスプリット7 "ソノシートにのみ収録されていたもので、Richie Allen & The Pacific Surfersという60年代初期にカリフォルニアで活躍していたギターリストRichie Allenが率いていたサーフィン/ホットロッド・グループのカヴァーです。原曲は1963年のアルバム「The Rising Surf」[Imperial]に収録。ここでしか聴けない貴重な音源ですが、次作『WATUSI』で顕著になるスタイルであるサーフィン/ホットロッドのインストな訳で、これも「Signal」同様に布石として見逃せないものです。ちなみにこのスプリット盤のもう片面は当時のギターリストPaul Dorringtonが以前ベーシストとして在籍していたシェフィールドのグループ、A.C. Temple。

Softly Softly
厳密にはアウトテイクではありませんが、もし実際に録音していたのならぜひとも発掘して欲しかった曲です。Hit Parade展開中の1992年5月2日に放送されたBBC Radio 1 「John Peel Show」のセッションで披露された曲で、驚くなかれサビの部分は2年後にIsland移籍第一弾シングルとしてリリースされる「Yeah Yeah Yeah Yeah Yeah」[Isalnd CID 585/854 097-2]と同一。もしかしたらHit Paradeの一環として発売されていたかもしれない非常にカッコイイ曲です。現在、Peel Sessionのテイクが1998年にCooking Vinylからリリースされた『JOHN PEEL SESSIONS 1992-1995』[Cooking Vinyl COOK CD 146]で聴けます。
余談ですが、当時の某英音楽誌でこの曲が本シリーズのシングルとして発売される予定であることが記事になった時に、そのカップリングとして報じられたのはあのQueen初期の名作『Queen II』収録曲「輝ける7つの海(Seven Seas of Rhye)」だったとか!また実際にこの曲以外にもMichael Jackson 1991年の全米No.1ヒット"Black or White"もリハーサルしていたとの事。この2曲、もし録音されていたのなら一体どんな仕上がりになっていたのか…いろいろと想像が膨らみます。またデイヴィッド・ゲッジのフェイヴァリット・バンドの1つであるCocteau Twinsの"Musette and Drums"もカヴァー曲の候補として考えられており、実際にコクトー・ツインズ・サイドの許諾を得ていた事も後年明らかになっています。

なお、このHit Paradeシリーズ終盤に発売されたオムニバス作品で英音楽誌N.M.E.とBBCラジオ局が企画した3枚組のコンピレーション・アルバム『Ruby Trax』[Forty NME40CD]に収録されていたナンバー"CUMBERLAND GAP"がこのHit Parade期のアウトテイクと勘違いされている様なのですが、実際にはこの曲は1990年末頃に録音されたもの。つまり『Seamonsters』期のメンバーでの録音で、同作からの先行シングルとなった"Dalliance"[RCA PD44496]のカップリングに収録されているThe Velvet Undergroundのカヴァー"SHE'S MY BEST FRIEND"と同じNeil Ferguson(その後Chumbawambaの世界的な大ヒット"Tubthumper"にも関わっているプロデューサー)の元で行ったロンドンでのセッションで録音されています。このカヴァーは後に『SINGLES 1989-1991』にも収録されています。

訳者あとがき [YOSHI@TWP-CINERAMA March 17th, 2003]
 訳出し終えてふと気が付いた事。まさに10年前、1993年の今日3月17日、Weddoes初来日ツアー東京公演初日となった渋谷ON AIR(のちのON AIR EAST)で僕は一生涯忘れられないライヴを体験したんでした。転職したばかりなのに生意気にも仕事のスケジュールを必死に上司に頼み込んで無理矢理空けて行って。1時間にも満たないライヴだったけれど、未だに頭の中で全曲セットリスト通りに再生できるくらいに思い出される鮮烈な体験。おそらくあんな風に好き過ぎてどうしようもない気持ちで誰かのライヴを観る事なんてもう二度と無いんだろうなと、改めて思っています。こんな酔狂なサイトをやっているのも、あの時期、熱に浮かされた様に毎日ひたすらWeddoesの曲を聴いていた自分があんな強烈なライヴを体験してしまった事が元凶と言えば元凶なんでしょう。
 実は自分が最も思い入れのあるWeddoesがこの“Hit Parade”。もう理屈抜きに大好きな時代です。10年経った今も他のアルバムや作品の様に客観的になれないし、1曲目の"Blue Eyes"のイントロが流れ出しドラムがフィルインした瞬間に“頭に血が昇る”。今までこのカタログに関してまとめて検証する様な事が出来なかったのも、いろいろ思い出す事が生々し過ぎたせいです。どのシングルにも入手するまでのプロセス(...今みたいに全てがネットで事足りる世界ならまだしも、10年前は英国盤の7インチ・シングルを普通に仕入れている店なんて数が知れてましたから、目当ての所に無ければ途方に暮れ、都内/都下近郊の店を足を棒にして探し回ったのも1度や2度ではないです。)も含めた大小様々な思い出があり、どの曲を聴いてもその当時の悶々としていた時代の青臭い、気恥ずかしい、やるせない想いが甦るものがあります。それぞれのシングルが発売された頃に何があったか、どんな思いで過ごしていたかが鮮明に思い出される、そんな極私的な意味で結びつきを一方的に感じているシリーズな訳です。ライヴもそうだったけど、おそらくこんな形で特定の音楽と関わりを持つ事もこの先無いでしょう、たぶん。

 それにしてもです。いくらメジャー資本で制作されたシリーズだったとは言え、なぜこんなに複数のプロデューサー/エンジニアを起用して、曲によって別のスタジオやプロジェクトで録音する事にしたのか。予算やスケジュールを考えればこんなに効率の悪い事はないでしょう?昔からそれが不思議で仕方が無かった。で、10年経って考えたのはこれ明らかに『Seamonsters』の反動ではないかと。要は、TWPというバンドのサウンドは別にある1人の個性的なエンジニアの強い影響下で形成されたものではなく、誰と制作してもTWPのあの音は強烈な個性を伴って記録されるものなのだ、TWPというバンドそのものがオリジナルな存在であるのだという事をこのシリーズによって証明したかったのではないか?という事です。結果は?改めて説明するまでもないでしょう。
 一方で見方を変えれば、『Bizarro』からのRCA3部作によってギター・バンドとして1つの決定的な、他の追随を許さない孤高の完成型を作り上げてしまったTHE WEDDING PRESENTは、デビュー時から変わる事のない「1枚として同じ作品を作らない」というポリシーからすれば、全く新しい領域を目指して次の段階に進む事を余儀なくされてしまったのかな、とも思うのです。ついにオリジナルメンバーがデイヴィッド一人になり、新たなメンバーも加わり、レーベルを移籍してリリースした『WATUSI』で意識してギター・バンド的な作風から離れたのも当然の流れだったわけですね。

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